2011.5.26
5月22日より2泊3日で、福島県に復興支援・メンタルケアのボランティアに行ってきました。NLPコーチングのスキルを活用して、ゴールデンウィークに復興支援セミナーを受講したチームで参加しました。
初日の深夜に福島県に入り、翌朝から田村市の農家を訪問しました。この地域は緊急時避難準備区域でかつ30km圏内になっており、当日の放射線量は自治体の放送によると0.2マイクロシーベルトでしたが、地域によっても違いますが実測値では、地上1メートルの高さで1.2マイクロシーベルト、水たまりや下水の近くでは、20マイクロシーベルトを超えるところもあり、全身防護服着用の活動となりました。
山村地帯で民家は点在しており、すでに非難しているお宅も半数はあって、面談できたのは1グループ5軒ほどでした。ライフラインは確保されておりますが、お年寄りが多く、野良仕事もままならないので、運動不足になりがちです。自然と心も沈んでいくので定期的な巡回が必要です。快く受け入れていただきたくさんのお話を伺いました。いつ退去命令が出るかという不安を抱えて、いつもなら田植えの季節になるのに、ただ茫然と時間の経過を待っている状態でした。感情的になる方は少なくあきらめ加減でしたが、住み慣れた静かな山村に突然起こった原発事故が生活の基盤を今もなお揺るがしているのは事実です。
南相馬市を通って原町に移動して、その晩は避難所とボランティアセンターのある小学校に宿泊しました。テレビでよく見る段ボールの囲いの中で一夜を明かしました。毛布が備え付けられていましたが、朝方はかなり冷え込みましたので、シュラフを持参して正解でした。
翌朝は別の避難所に移動して、お話をお伺いして回りました。ここには80名ほどの方々が避難しておりますが、平日の昼間は仕事に出かけていらっしゃる方もあり、お会いしたのはやはりお年寄りが多かったです。
しかし前日との違いは明らかです。住み慣れた自宅から強制的に退去させられているのです。にもかかわらず総じてみなさん穏やかで快く向かい入れてくれました。話し始めたら止まらないほどでした。それにつれだんだんと表情が豊かになっていくのを見て、傾聴の必要性を痛感しました。年齢相応に持病を持っていらっしゃいますので、薬の供給が行き届いていることに感謝しています。朝食は炊かれたご飯が支給され、昼と夜はお弁当です。多少の好き嫌いと夜のいびきを我慢すれば、お年寄りならば受け入れられる環境のようです。
前日が最初の仮設住宅の抽選日で、翌日が最初の一時帰宅日でしたが、何かそこから活路が見いだされるといった期待感は感じられませんでした。実際、仮設住宅が当たっても利便性から避難所にとどまる方もいるようです。
最初に穏やかに応対してくれた老夫婦が、自分の両親と重なってしまい胸が詰まってしまいました。田舎の両親がもし、2m×3mのダンボールで囲まれた万年床でもう1ヶ月半も暮らしているとしたら・・・・・
午後になってこの避難所を管理している医療関係者の一人と面談できました。彼女の義父母はこの震災で亡くなられました。
3月11日、いつものように病院勤務で、日頃より年の割には元気な姑なら必ず自力で避難していると確信していました。しかし・・・・・がれきの下敷きになって身動きできずに嫁の名前を呼んでいたと。助け出されたときは海水を飲んでいて、ろくな治療も受けられずに、寒い寒いと言いながら担ぎ込まれた避難所で息絶えたと後になって教えてもらいました。
涙ぐみながらの話にもらい泣きしました。
姑の言葉に甘えて仕事優先で長年医療に従事、その姑の死に目にも会えず、いったい自分は何をしてきたのだろうか。
医療関係者にもたくさんのニーズがあることを目の当たりにしました。今頃になって明らかになってくる原発の事実、先の見通しのない状況の中で、多くの人たちが喘いでいます。あまりにも大きな出来事だからこそ、かつてない反応をしないと申し訳ないと思います。
このことから何を学べるだろうか?私には何ができるだろうか?
「一人ひとりは違います。でも一人ひとりはつながっています。」
2011.4.5
訳あって、一人で講習を受けることになった彼。入国時点での日本語が十分でなかったので、かなり大変でした。日本語の先生もマンツーマンで教えてくれましたが、なかなか手ごわいのです。
でも特別な存在になりました。
入国直後に、大震災を経験したのです。土日にはスタッフのところに泊めてもらいました。平日でもなるべく夜遅くまで付き合いました。後半は毎朝、修了式のための作文の朗読をしました。
その甲斐あってか、日本語はともかくとして、関係は深まりました。
夜仕事をしていると、「一緒に食べませんか」と、誘ってくれます。毎食、おかずは一品です。すべて炒め物です。でも美味しいのです。自然に二人ともにこやかになって、食べながら日本語・中国語勉強会が始まります。ほとんど教えられっぱなしの彼が、この時だけ先生になれます。
そんな彼が明日、実習実施機関に配属になります。今晩は、にんにくの芽と卵とベーコンの炒め物でした。いつもより特別です。昨日のうちに誘われていたからだと思います。
いい気持ちでした。
食後にごそごそと倉庫をあさり、使い古しですが額をプレゼントしました。明日の修了式の時に読む作文を、3年間ずっと見えるところに飾っておけるように。
タイトルは「私の夢」です。
2011.3.23
尊敬するコンサルタント会社の早朝勉強会に参加した。
受講後の第一声、「得した〜!」自分の開催しているセミナーについて、たくさんの助言となった。ぜひ活用したいと思った。そしてそれを実行したらどれほど成長できるかと想像したら楽しくなった。
そして・・・・・それだけでなく、担当の方が名刺交換してくれて、さらに他のスタッフが話しかけてくれて、そして、外は寒いのでここでお召しになってください、と言いながらコートとマフラーを渡してくれて、そして、エレベーターまで講師をはじめ複数の人が送ってくれて、・・・・・・・外に出てもコートは全く必要なかった。すごく暖かい思いで一杯になっていた。
先月の自分のセミナーで紹介した言葉を思い出した。南アフリカのナタール州北部に住む部族の間で、ごく自然に交わされてる英語の「ハロー」に相当する挨拶の言葉「サウボナ」を直訳すると、『私にはあなたが見えます。』それ対して「シコナ」=『私はここにいます』
勉強会の講師の言葉と重なって、「セミナーで人の考え方を変えることにはフォーカスしていたが、どれほど行動を変えることまで見ていたか。」という質問がわいてきた。
相手に何かを望むとき、言葉だけでなく、どれほどそれをしたくなるような環境を創ってあげられているか。人を変えることは難しいが、人が変わる環境をつくることはできる。
早朝勉強会で考え方を学び、窓から見える緑と清潔なオフィス、スタッフのおもてなしとが一体となって、私は変わりたいと思った。だから得した〜!
2011.3.15
信頼するコーチとトレーナー仲間から似たようなメールが届いたのでシェアしたいです。
私も含めて多くの方々が、地震のニュースに釘づけになっているのではないでしょうか。諸外国の支援には感謝以上に、国を思う悲しみがわいてきます。
二人のアドバイスの共通点は・・・
改めて被災者の方々にお見舞い申し上げます。
2011.2.7
ある本を読んでいて、数か月前のNLPセミナーでシェアしたことを思い出した。それはその季節としては珍しい集中豪雨に襲われたことについてだった。
地下鉄を出て雨が降り始めたのに気が付いたが、高を括って目的地まで歩き始めると次第に雨足が強くなる。それでも考え直さず、進むとさらに強くなり、あっという間に道路が川のようになった。最初は靴に水が入らないように注意して、少しでも浅めのところを狙って歩こうとするが、次第に何の意味もなくなってくる。
一度靴の中に水が浸入すると、もうどうにでもなれと投げやりになる。それこそ、雨雨降れ降れ♪♪〜ピチピチジャブジャブランランラン♪〜である。
やっとのことで会社について、ずぶ濡れの靴を逆さにして水を出し、靴下とズボンをガスストーブの前で乾かしながら、先ほどの怒りの感情が違うものに変わっているのを感じ取る。久しぶりに童心に帰って結構楽しかったじゃん。
これって、ずぶ濡れを味わい尽くしたことになるのかなあ。
2011.2.6
今読んでいる本の中で「盲点(ブラインドスポット)」という言葉が目に留まった。
数日前のテレビで聞いた、石川遼さんと杉山愛さんの話にもリンクする。ともにご両親の指導で共通しているのが、「結果よりその前の体の動きができているかのチェック」だそうだ。
NLP的に解釈すれば、最高の状態に持っていくための経緯が重要で、それさえしっかりしていれば、結果はおのずと達成される、ということか。
わたしの気づきは、本気にするか、本気になるか、本気でやるか、である。
2011年1月25日
1月17日に事務所を移転して新しいスタートを切ることができました。
今回の引越し屋さんは、若い人たちが非常にきびきびした動きで、対応も親切でさわやかな気持ちになりました。過去の遺物がたくさん詰まった一角も、あっという間に綺麗になって前日までの心配も一掃されました。
ほとんどの荷造りと荷解きをお願いしましたが、それでも準備には、予想をはるかに超えた時間がかかり、精神的なプレッシャーもありました。そんな中でのこの会社の人材は、契約以上の働きでした。
私たちの技能実習生受入れ事業も、いかに良く教育された人材をご紹介するかが鍵です。中国の勢いに劣勢ばかりの風潮を一掃できるのは、日本人の持っている考え方や気持ちです。
私自身もこれだけやってきたんだからと思いつつ、一期一会の気持ちでスタートしています。
2010.11.6
お世話になっている中国の送り出し機関の会長が亡くなられた。大変残念だ。
1年ぐらい前から闘病生活であったが、もうお会いできないと思うと実に悲しい。
特別にお世話になったから。
そもそもお付き合いのきっかけは、現社長の息子さんと一緒に組合にお見えになったことからである。苦労されたと聞いているが、実業家としてもお役人としても成功された方なのに、大変寡黙で息子さんを立てていらっしゃったのが印象的だった。
契約に到ったのは、息子さんの実力もさることながら、このお父さんが息子さんを大きくやさしく包むようにして一体となり、私の心の中に入ってきたからである。
私にとって中国ビジネスのスタートに安心と安全の土台を作っていただいた。
実際に中国に行くたびに、空港まで出迎えてくれて、やあやあと熱い握手を交わしたのが懐かしい。
あるとき日本人の振る舞いに私自身が憤りを感じ、中国人に申し訳ない気持ちでいっぱいだった時には、すべては私のお客様だといって、寛容なこころで迎え入れて、逆に切り替えの遅い私を暖かく諭してくれたものだ。
ご病気と聞いてからすぐに暖かそうなベストを贈った。釣り好きだったので、全快してからも着れるように願いをこめたつもりだった。お見舞いも叶わなかったので何かで感謝を表したかった。ちょっと大げさだが、感謝でお父さんを包みたかった。暖かく。喜んで着用していただいていると聞いて、すごくうれしかったのに。
領土問題が取りざたされ、脅威のイメージがクローズアップされている中国だが、「安心・安全」の暖かい思い出も持っている人は私だけではないと思う。